2009年06月29日

人類の文明史の歴史観のひとつ

世界四大文明(せかいよんだいぶんめい)とは人類の文明史の歴史観のひとつ。 歴史上、4つの大文明が最初に起こり、以降の文明はこの流れをくむとする仮説。四大河文明とも言う。

ここで四大文明は、メソポタミア文明・エジプト文明・インダス文明・黄河文明をさす。なおメソアメリカ文明、アンデス文明などのアメリカ大陸の文明は無視されている。(なお、これらを含めて六大文明ということもある。)

スキューバダイビングに挑戦!
素肌のエクステ
ゴルフレッスンの日々
こだわりのレストランを探そう!
クラシックのグッドナイト
アロマタイムスイッチ
コスメ・メイク図鑑博士
ひまわりの天気予報
セレブな快適通販・取寄せライフ
キャンプねっと。ファミリー特集!
クリームソーダで保険比較
賢く検定・大好き
首都圏の素敵な部屋
車で行こう!道しるべ
WEBマーケティングノウハウ
フラワーパークで春夏秋冬体験講座
40歳の素敵な出会い
はじめての投資に挑戦
ウサギの人材派遣でお仕事
クロールアイドルNO1
こだわりキャンプ術
うらないカフェの秘密の部屋

この考え方の原型は梁啓超の『二十世紀太平洋歌』(1900年)にあり、「地球上の古文明の祖国に四つがあり、中国・インド・エジプト・小アジアである」と述べている。この考え方はアジアでは広まったものの、欧米では受け入れられなかった。また、考古学研究が進展した現代では、初期の文明を4つに限定する見方は否定的であり(当の中国でも長江文明など、黄河文明以外の文明が存在したことが確認されている)、四大文明という概念自体が知識が乏しかった過去のものといえる。

これらのグループの特徴は、新石器時代のエリコやチャタル・ヒュユクのような初期の定住とは区別されているということである。

文明をはぐくんだ大河が存在することによる氾濫農耕、潅漑農耕による余剰農産物の蓄積。
都市への定住:人々が特定の職業に就く
組織や種族:単一の定住に比べてより広域な地域にまたがる
小麦の文明:黄河文明以外の文明は小麦の栽培が盛ん

2009年06月12日

意識(いしき、Consciousness)とは自分の

意識(いしき、Consciousness)とは自分の今ある状態や、周囲の状況などが正確に認識できている状態のことを指す。

分野ごとに様々な定義があり、論の展開も著しく異なるので、以下個別に解説する。

意識の性質 [編集]
意識の構成には「清明度」、「広がり」、「質的」の三つの要素が存在するが、このうち一般的に意識障害というと「清明度」の低下についてを指す。[要出典]「広がり」の低下(意識の狭窄)は催眠であり、「質的」の変化(意識変容)はせん妄やもうろう等を指す。

意識・無意識 [編集]
意識は脳の働きが活性化し、五感に対する刺激を感じ取ることが可能な状態である。
「意識がある」とは、脳において刺激を認識することが可能であり、刺激に対し明確な反応を示す状態を指す。
無意識は五感に対する刺激が脳で感じ取られず、刺激を認識していない状態である。刺激に対する反応が部分的な状態である。
「意識がない」とは、脳の働きが部分的に停止し、刺激の入力を拒否した状態である。
「気を失う」とは、過剰な刺激に対しショックを受け、脳の働きが停止した状態である。

意識レベル [編集]
医療の現場に於いては、意識の状態・反応に応じて「意識レベル」で表示する。救急医療では、バイタルサインの重要項目の一つとして先ず疾病者等の意識を確認して「意識レベル」の判定を行う。

「意識レベル」はGlasgow Coma ScaleやJapan Coma Scaleによって数値化して評価される。

哲学における意識 [編集]
中世において、意識はほとんど良心と同義であり、現在我々が知る心的現象一般としての意識という概念はなかった。

意識や心の構造が問われるようになるのは、17世紀以降である。近世前期の哲学において、意識はもっぱら思惟を典型とする認識と表象の能力として扱われたといってよく、ただしこの認識能力は感情や感覚を含むものであった。ルネ・デカルトは仏: Je pense,donc je suis(我思う、ゆえに我あり メルセンヌ神父によるラテン語訳羅: Cogito ergo sum)などの方法論的懐疑により、後世に主観的でありしかもなお明証性をもつ羅: Cogitoと表現される認識論的存在論を展開した。デカルトは世界を「思惟」と「延長」から把握し、思惟の能動性としての認識と受動性としての情念をそれぞれ主題化した。
ボディビルディング
芸術
原子力工学
グラフィックデザイン
楽譜
インダストリアルデザイン
太陽系
マラソン
風水
北海道
肥満
インディアカ
核医学
ゴルフ
性行為感染症
ポリマー
デング熱
電子工学
色素性乾皮症
農業工学

ゴットフリート・ライプニッツにおいては、全表象能力はおのおの明晰さの度を持ち、もっとも完全な認識である悟性が神を直観的に認識するほか、理性は合理的推論を判明に、感性は感覚的把握を明晰に行うとされた。ライプニッツの影響を受けたクリスティアン・ヴォルフは、「意識」の語をドイツ語: Bewusstsein (字義通りには「知られている状態」)と造語し名づけた。イマヌエル・カントは、Cogitoを「純粋統覚」(reine Apperzeption)とみなし、すべての悟性的認識の根源であるとしたが、意識そのものの主題化には向かわず、各認識能力の身分と能力についての考察をその批判において展開した。

意識がドイツ哲学において全面的に主題化されるのはドイツ観念論においてである。ヨハン・ゴットリープ・フィヒテは、デカルトやカントが cogito/Ich denke から遡行的に知られるとした "ich bin" 我あり、をデカルトにおいてそうであったような個我の自己認識から、カントが主題化した超越論的認識能力の原理へ拡大し、"独: das Ich"(日本語訳 自我)と呼び、その働きを定式化した。ここでdas Ichとは意識の能力にほかならない。つまり、そのようなdas Ichは、自己自身を真正の対象とする活動、すなわち(独: Tathandlung(日本語訳 事行=自己を認識する活動である)と把握され、この自らを客観(対象)とする認識主観としての自我を自己意識と呼ぶ。フィヒテのほか、フリードリヒ・シェリング、ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルらが自己意識を哲学の問題として取り上げた。シェリングは、対象化された自己意識を」独: Unbewusstsein(意識でないもの)、独: Bewusstlosigkeit(意識を欠いた状態)(日本語訳「無意識」)と名づけた。ユングはシェリングが無意識の発見者であると指摘している。ドイツ圏における意識についての研究は1780年代から1810年頃まで盛んに行われたが、その後は存在論的哲学に再び座を譲った。

2009年06月07日

陰謀論(いんぼうろん、conspiracy theory)

陰謀論(いんぼうろん、conspiracy theory)または陰謀説(いんぼうせつ)とは、ある出来事について、広く人々に認められている事実や背景とは別に、何らかの陰謀や策謀があるとする意見[1]を指す名称である。

「陰謀論」という言葉が一般に認知され、さかんに用いられるようになったのは比較的最近のことであり、いわゆる「新語」に分類される[2]。広辞苑第五版にも採用されていない。

「陰謀論」という用語は、

歴史上の出来事は、ある個人・団体の陰謀、策謀に基づき生じた
ある個人・団体の活動に、目的や内容が隠蔽されている活動がある
とする考え、もしくは考え方を指して用いられる。

「陰謀論」に基づいて世界史を解釈することを、「陰謀史観」などと呼ぶ人もいる。

「陰謀論」とされるのは、一般に、強い権力をもつ者(一国もしくは複数の国の政府、警察、軍隊、あるいは巨大資本、マスコミ、宗教団体、民族集団など)が一定の意図を持って一般人の見えないところで事象を操作している、とする主張や説や指摘である。具体的には以下のようなものが代表的なものだ[要出典]という。

政府は国民に秘密で何事かを行っている[3]
世界や国家は何らかの団体にコントロールされている
ある戦争や事件は通説とは別の理由で起こったものだ

陰謀論には一見して荒唐無稽なものが多く、趣味や娯楽、論証的な「あそび」に見えるため軽んじられる事が多いが、歴史的には社会や政治に重要な影響を与え、民族差別やホロコースト、魔女裁判などの正当性を補強するための狂信にしばしば利用されてきた。大衆や民衆が政治に重要な影響力をもつ社会情勢(民主政・衆愚政治)はとりわけ陰謀論に脆弱であり、陰謀論に含まれる詭弁(ある事象に関する仮説について、誰も証拠をもって反論することができないことに立脚する論証(未知論証))は、しばしば非人道的な行いや社会的な悲惨をもたらして来た。
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言論統制や宣伝行為を考慮しない前提で、論理の構造を考察した場合、通説は、検証により棄却されない仮説を消極的に採るという行為の積み重ねにより信頼性の高まったものであると理想化されるのに対して、陰謀論は、検証により棄却されない仮説を、通説に対抗的な特定の意図(対立するイデオロギー・政治的宗教的意図)にもとづき積極的に採る事が多いとされる。陰謀論は疑いを捨てられない状況において疑いを支持することや、未検証の仮説を検証されたものと同等に採用することで生じるとも言う。

このため陰謀論は通説と比較して信頼性が著しく低い場合が多く、また採用すべき仮説に対する全くの誤解や無理解、誤解釈に基づく事も多いという批判が可能である。

少数説は通説が基礎としている命題(仮説)を検証する過程で論争があり多数により支持されるにいたらない説のことであり、陰謀論とは異なる。

検証の積み重ねを経ることで、事実や通説として認識される陰謀論もある。

いくつかの陰謀論は、結論が検証に優先しており、客観性や整合性に欠けている。仮説が検証に先行することは学術においても一般的であるが、仮説を前提として結論を得ることは論点回避(Begging the question)であり誤謬である。陰謀論においてはより顕著となる例が多い。

陰謀論の支持者は、検証により棄却された仮説であっても、検証に捏造された資料が関係していると論じたり検証過程そのものに陰謀が関与しているなどと主張し棄却に同意せず(このこと事体は学術的な態度として必ずしも誤りではないが)、よって棄却された仮説を結論的な証拠として積極的に採用することがあるという。

陰謀論には循環論法を利用しているものもある。詭弁#循環論証(circular reasoning)を参照の事。

「陰謀論」という表現は、それを唱える者にとっての信念を、脆弱な仮説として規定するため、唱える側の立場の人たちが積極的に使うことは少ない。

現実に存在した陰謀(陰謀論#明らかとなっている陰謀)を列記する事で、世界の歴史は陰謀により作られたとする「陰謀史観」は早まった一般化であり、都合のよい事実を列記する詭弁(チェリー・ピッキング)の可能性がある。という。

2009年04月24日

最大4000万ドルかかったと

第2次セミノール戦争は最大4000万ドルかかったと言われている。4万人以上の正規のアメリカ軍、民兵、および志願兵が従軍した。軍事行動中、300人以上の正規アメリカ陸軍、海軍、および海兵隊の人員が、55人の志願兵と共に殺された。そしてそれ以上の人数が、疾病または事故で死亡した[67]。セミノールの戦死者の数に関する記録は全くない。多くのセミノールが病気か飢餓のために、フロリダで、西部のインディアン居留地に行く途中に、あるいは西部に到達してから死亡した。戦争中、数は不明ではあるが、明らかにかなりの数の白人の民間人が、セミノールによって殺された。

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第2次戦争後
フロリダに平和がやってきた。インディアンはほとんどは居留地に滞在していた。不法入居者は、居留地のより近くに移りつつあり、1845年、ジェームズ・ポーク大統領は、居留地の周りの20マイル(30m)に広い緩衝地域を設けた。緩衝地域の中では、土地を要求することができず、土地所有権は発行されず、連邦保安官は要求を受けて、緩衝地域から不法入居者を退去させることになった。1845年、ブルック砦で商店を経営していたトーマス・P・ケネディは、インディアンのためにパイン島(en:Pine Island (Lee County, Florida))の彼の漁区を交易所に変えた。しかし交易所は順調ではなく、なぜならインディアンにウイスキーを販売した白人たちが、彼らがケネディの店に行けば、捕らえられ西部に送られる送られると言ったためであった。

フロリダ当局は、フロリダからすべてのインディアンの退去をうるさく求め続けた。一部のインディアンは、白人との接触をできるだけ制限しようとした。1846年、ジョン・T・スプラグ大尉は、フロリダのインディアン問題の担当として配置された。酋長らと彼が会う際に、彼は大きな問題を抱えていた。休戦中でもしばしば酋長を捕らえていたので、インディアンは陸軍を非常に信用していなかった。1847年、彼は農場の襲撃のレポートを調査している間に、何とかして酋長全員に会った。彼は、フロリダのインディアンは120人の戦士がいると報告した。それらは、ビリー・ボウレグスの団に70名、サム・ジョーンズの団に30名のミカズキ、チプコの団に12名のクリーク(マスコギ語を話す)、4名のユチ、および4名のチョクトーを含んでいた。また、彼は、100人の女性と140人の子供がいたと見積もった。

インディアンの攻撃
パイン島の交易所は1848年に全焼し、そして1849年、トーマス・ケネディと彼の新しいパートナー、ジョン・ダーリングは、ピース川の支流である現在のパインズ・クリークに、交易所を開く許可を与えられた。このとき、インディアンの1つの団が居留地の外で暮らしていた。「アウトサイダーズ」と呼ばれるこの団は、チプコのリーダーシップの下に、20名の戦士から成っていて、5名のマスコギ、7名のミカズキ、6名のセミノール、1名のクリーク、および1名のユチを含んでいた。1849年7月12日に、この団の4人のメンバーがピアス砦のすぐ北のインディアン川で農場を攻撃し、1人の男性を殺して、別の男性と女性を負傷させた。この襲撃に関するニュースで、フロリダの東海岸の人口の多くがセントオーガスティンに逃げた。7月17日に、インディアン川で農場を攻撃した4名の「部外者」、およびインディアン川にいなかった5番目の男性は、ケネディとダーリングの店を攻撃した。ペイン大尉を含む店の2人の労働者が殺され、彼らの子供に隠れているようにエスコートしていた別の労働者と彼の妻は負傷した

2009年04月06日

ゴスペル (音楽)

ゴスペル(Gospel music)は、アメリカ発祥の音楽の一ジャンル。元来はキリスト教プロテスタント系の宗教音楽。ゴスペルは英語で福音および福音書の意。ゴスペルソング、またゴスペル音楽(ゴスペルおんがく)ともいう。

奴隷としてアメリカ大陸に連行されたアフリカ人は彼ら独自の言語・宗教などをいっさい剥奪された。その苦しい状況下で、彼らのうちのある人々は、救いを与えるゴスペル(福音)と出会い、個人的なキリスト教への改心を経て、神に彼ら独自の賛美をささげるようになった。こうしてアフリカ特有の跳躍するリズム、ブルー・ノート・スケールや口承の伝統などとヨーロッパ賛美歌などの音楽的・詩的感性が融合してスピリチュアル(黒人霊歌 negro spiritual などとも言う)という現在のゴスペルの基調となる音楽が生まれた。後年になってジャズやロックなど様々なジャンルと結びついてその音楽性は今も進化し続けている。

キリスト教会でもこれを用いる教会と用いない教会があるが、特に青少年のための礼拝にはバンドまで繰り出して盛んに使われ、ローマ・カトリック教会でも事実上若い信者の獲得のために公認している。

なおゴスペル・ミュージックには、1930年代から黒人教会で演奏され始めたブラック・ゴスペル(一般的にはこちらを指す)と、南部州の白人クリスチャンアーティストが歌っていたホワイト・ゴスペルがある。ブラック・ゴスペルとホワイト・ゴスペル両者とも同じメソジスト賛美歌が源流であるが、黒人と白人の教会それぞれが完全に分離していた(→人種差別、ジム・クロウ法)ため、両者の音楽性もかなり異なったものになっている。今日では、ブラック・ゴスペルを「ゴスペル」、ホワイト・ゴスペルを「コンテンポラリー・クリスチャン・ミュージック(CCM)」と呼ぶのが通例。

教会、礼拝(Christian worship)に関連した場所・イベントのみで演奏したマヘリア・ジャクソン。ナイトクラブなど世俗での演奏をしたゴールデン・ゲート・カルテット、クララ・ワード。教会・クラブどちらでも活動したアル・グリーンなど。活動姿勢は様々だった。

影響 [編集]
アメリカ合衆国の当時のポップ・ミュージックであったリズム・アンド・ブルースに影響を受けたゴスペル・アーティスト(ザ・レイバンズ、ザ・フラミンゴス)は、当時必ずしも充分な楽器を備え付けられなかった黒人教会の状況も手伝って、アカペラという形態のゴスペルを広めた(尚、1980年代後半から1990年頃の日本のアカペラブームの際に、当時アメリカでは既に古いものとなっていたアカペラゴスペルが多く輸入された為、未だにゴスペルという言葉とアカペラと言う言葉が混同されるケースが多く見られる)。後にゴスペル出身のサム・クック、レイ・チャールズ、ジェームス・ブラウンなどはゴスペルとR&Bを咀嚼しながら発展させ、ソウル・ミュージックと呼ばれる新しいジャンルを開拓した。この、聖から俗へというゴスペルの流れは少なからず教会の反感を買った。

ソウル・アーティストとして知られるアレサ・フランクリン、マーヴィン・ゲイ、ウィルソン・ピケットなどは幼い頃から教会で親しんでいたゴスペルに、音楽的に多いに影響を受けたと言われる。また、サイモン&ガーファンクルの世界的ヒット曲「明日にかける橋」はゴスペルにインスパイアされたものであるとされ、アフリカ等ではキリスト教会に“逆輸入”されている。

現代 [編集]
ゴスペルクワイア(聖歌隊)と呼ばれる数人-100名以上から成る力強いコーラス隊を曲の途中(曲の最高潮部分など)から登場させるのは伝統的ゴスペルに特有の手法だが、近年ではオルタナティブ・ミュージック、シンフォニック・メタル、ロックなどにもこの手法が取り入れられている。

90年代頃から生まれたクリスチャン的テーマをラップ歌詞に乗せたゴスペル・ラップ(holy hip hop, Christian hip hop)と呼ばれる音楽もある。若い牧師・説教者などが教会で説教する際、時折(通常なら説教に関連した歌のフレーズを口ずさむ所を)ラップに代用させる者もいる。

ジャズ、ブルース、リズム・アンド・ブルース、ヒップホップ、ファンク、ラテンファンクなど、黒人音楽の多様化はそのままゴスペルの世界にも投影され、聖書をベースとしたメッセージ(原則プロテスタント解釈による)がこれらの多様な黒人音楽スタイルにのせて歌われるもの全てが市場ではゴスペルであるとされる為、ゴスペル音楽という言葉は現在、直接音楽のスタイルを指さないものとなりつつある。

機能的分類 [編集]
黒人教会の礼拝内の機能において、ゴスペルソングは主に以下のように大別出来る。

プレイズ(Praise)ソング
主には礼拝の最初に置かれるセクションで、集まった会衆全員で1〜3曲程度を歌う。早いビートや躍動的なビートで、多くのケースではクラップ(手拍子)を伴って歌われ、礼拝の開始を華やかに盛り上げる機能を担う。プレイズリーダー(プレイズチーム、プレイズ&ワーシップリーダー)と呼ばれる一人〜数人のシンガーによってリードされ、会衆が追いかける形が一般的。クワイアーによってではなく会衆によって歌われるので、曲は単純なフレーズの繰り返しか、アフリカ系アメリカ人クリスチャンの間で良く知られた曲である必要がある。「さあ共に賛美しよう(感謝しよう、喜ぼう)」と言った内容の多い歌詞の中で、神は「彼(He)」として三人称で歌われる事が多い。伝統的な代表曲は This Is The Day, Oh Magnify The Lord, Glory Glory, I Was Glad When They Said Unto Me 等。
ワーシップ(Worship)ソング
通常はプレイズの直後におかれるセクションで、会衆はより内向的になる。この時会衆がめいめいに手を広げたり、祈るように手を合わせたり、目を閉じたり、天を見上げたりしながら歌う姿が多く見られる。ゆったりとした曲調で、やはり単純なフレーズが繰り返される事が多い。多くのケースで神はYou, Lord, など、二人称で扱われる。伝統的な代表曲は Thank You Lord, Halleluja 等
インスピレーショナル(Inspirational)ソング
牧師による説教の直前に置かれる事が一般的で、会衆ではなくクワイアーで歌われるのは主にこのセクション。聖書の内容に基づいて他者を励ますようなメッセージを歌ったり、自分が如何にして神に救われたか等について語ったりする。プレイズ的な内容、ワーシップ的な内容のインスピレーショナルソングもあり、また、スピリチュアルとして良く知られた歌詞を現代的にアレンジした曲等もある。会衆ではなくリハーサルを積んだクワイアーによって歌われ、今日では多くの著名なソングライターが作曲、出版もしているので、プレイズやワーシップに比べて比較的音楽的にこった造りであったり、クワイアーメンバーの中で比較的優れた能力を持つソロシンガーによって冒頭部や中間部が歌われる事が多い。ある程度歴史を経たある程度単純な造りのインスピレーショナルソングがプレイズ、ワーシップとして後に歌われるケースも少なくない。
オルターコール(Altar Call)ソング
オルターコールは通常は礼拝の最後に置かれるセクション。会衆の中でまだキリスト教に入信していないが入信に関心のある人や、信者の中でも精神的ストレスを抱えた人を牧師が祭壇(オルター)へ呼ぶ。ここで歌われる歌の内容は、「神にすべてを捧げます」、「神よ、私はクリスチャンになりたいです」と言ったものが代表的。曲調はおだやかなケースがほとんど。
オッファリング/自由献金(Offering)ソング
礼拝の中間部に置かれ、会衆に教会への寄付を求める。「祝福を求めるなら貧しきに与えねば」と寄付の価値を強調したり、「神はいかに私の人生に良くしてくれた事か」、等、神の恩恵を思い起こさせる内容の曲がここで好んで歌われる。曲調は躍動的なものが多い。
コミュニオン/聖餐(Communion)ソング
聖餐については別項目参照。キリストの血の価値について語られる歌をもちいる。ここで歌われる事のある曲目は機能が限定されているため通常は礼拝の他のセクションでは用いられない。教会の宗派、牧師ごとのスタイルによって、明るい曲調も、ゆったりとした曲調もある。伝統的な代表曲は Power In The Blood Of The Lamb、The Blood That Jesus Shed For Me等。
以上のような種別は、礼拝内の機能にあわせた歌詞を持つ曲が取り上げられる事で生じるもので、必ずしも曲目ごとにはっきりとした属性をもつものではない。ただし、歌詞の内容上オッファリングにしか用い得ない曲、曲の構成上単純過ぎてインスピレーショナルにふさわしくない曲、複雑すぎてプレイズに向かない曲、等の考え方で類別するのが教会では一般的である。

ゴスペルを題材にした映画 [編集]
天使にラブ・ソングを… Sister Act (1992) ウーピー・ゴールドバーグ主演。
ただし、この映画はカトリック教会を舞台としており、その音楽は多くが聖母マリアについて歌う為、多くのアフリカ系アメリカ人クリスチャンの観点からすれば、マリア信仰の無いプロテスタントの文化であるゴスペル音楽とは本質的に違うものである。しかしながら、結果的にこの映画の中の一ゴスペルナンバー、「Oh Happy Day」がゴスペルブームの火付け役となった事もあり、日本ではこの映画で歌われている音楽全体をゴスペルであるとする考えが浸透している。
天使にラブ・ソングを2 Sister Act 2: Back in the Habit (1993)

どうぼう みんな一緒 バドガエル タッフバグ パノラマ リージング おぜいゆ野 しうり ヘチマ フジ情報 ブラッド スパーリ キーマン ミール モグタ ピテクス レンギ わっかない ローファー ハード ミネソタ レニン グルユース タリン オクラ ドライスキ ミネル シーケー チェリスト ミカン リーブ アフリカ じょべーぜ ガジェット ラブロマ ボール バジェ ヌーディズ スコタイ チャイナス タイプミス みねばり フランク タンジ ピメント プロフェッ ミント タイル 月曜日 ノルレボ

2009年03月22日

カトー(KATO、関水金属)

日本ではカトー(KATO、関水金属)、トミックス(TOMIX、トミーテック・2000年まではトミー)が2大Nゲージブランドであり、それぞれ車輌から線路、パワーパック等の制御機器、さらには建物や樹木等のシーナリー用品までトータルに製品化している。初心者はこの2社のいずれかの入門セット(車輌と線路、パワーパック等を含んだセット)を購入して入門する例が多い。

他に車両中心でワールド工芸、マイクロエース(旧称:有井製作所)、グリーンマックス、モデモ(MODEMO、ハセガワ)、河合商会、松本商事等がNゲージ製品を発売している。

これらの製品は、百貨店、量販店の模型コーナーや、鉄道模型専門店で購入することができる。
ランド ドトラスト ジャム ガザニア マンホー ヒナガ ピンワ サテン ナスダック マクロ フォト ソンロ フラノ ロゴン もせう リアージ トポグ ロフィー ガスタン ぜんだな イコール ミサ全国 ジャンプ ハロー ロスジ ウィジ おおつち リヨン ビスタ ドッグ フォーカス トトカル トギザ ダリ タオル ッドカード ドーピ ダブル ライオ モブログ スノー くしろ エンド スノース バヌアツ ビラリー バスルガ チュリエ テーマソン リンド

このほかにもスタジオフィールやキッチン(kitcheN)など上級者向けの少量生産の製品を作るメーカーが多数存在する。

車輛
Nゲージの製品は、プラスチック成型(主にABS樹脂等)による完成品が主流である。これらはプラモデルとは異なり、塗装が施された上で組み立て済となっているが、機関車などは細かいパーツ(ナンバープレート等)は購入したユーザーが取り付けるようになっている製品も多い。前照灯や尾灯、室内灯が点灯もしくは点灯可能な製品も多く、前照灯の点灯については、3大メーカーの製品では古い製品を除き標準装備となっている。
また、プラモデル同様に自分で接着剤を使って組み立て、塗装するプラ製キットも発売されており、工作派のファンには根強い人気がある。
プラスチック製品のほかに、金属製(主に真鍮)やレジンの完成品及びキットも発売されている。
動力は基本的にはモーターで、金属製のレールから電力を取得して動く。海外の製品には、架線から電力を取得するもの(=架線集電システム)もあるが日本国内では採用例は無い。(トミックスが初期に対応架線柱(樹脂製)を発売していたが、架線集電対応車両の製品化はされなかった)
線路
大きく分けて道床付き線路と道床無し線路に分けられる。両者の違いは、道床無し線路がレール(軌条)とはしご状に作られた枕木部分だけで構成されているのに対し、道床付き線路は枕木の下の道床部分も土台のような形で一体となっている点である。道床なし線路には組線路と呼ばれる一般の線路のほかに長尺で自由に曲げることもできるフレキシブルレール(線路)がある。
Nゲージ初期には道床無し線路しか無かったが、日本においてはトミックスが道床付き線路を発売、これが急速に普及し、KATOなど他社も追随して独自の製品を発売した結果道床付き線路が一般的となった。以後道床無し線路はレイアウトを中心に使用されてきたが、レイアウトにおいても次第に道床つき線路が使用されることが多くなってきている。今や道床無し線路が使われるのは、道床付き線路では不可能な緩やかで自然なカーブをフレキシブルレールで作る場合くらいである。そのため道床無し線路の需要は減少し道床付き線路に比べて取り扱う店舗も少なくなってきている。
発売メーカー:主流の道床付き線路についてはトミックスとカトーの大手二社が製品を展開している。一方の道床無し線路はカトーの「固定式線路」が入手しやすく、海外メーカーながら、イギリスのPecoの製品も多くの鉄道模型専門店で取り扱いがある。またレールの専門メーカー「篠原」からも製品が発売されている。このほか、マイクロエースからは小型の集合式レイアウトとしても楽しめる「ジオラマレール」が発売されている。
コントローラー
パワーパック、パワーユニット、トランスとも呼ばれる制御機器で、入門向けの低価格品から大容量の高級機種にいたるまで豊富な種類が発売されている。以前はHO/16番等で製品を発売していたメーカーの物も見られたが、現在ではレールにあわせてカトー、トミックスどちらかのメーカーの製品を使うのが一般的である。
ストラクチャー(鉄道模型のレイアウト・ジオラマなどの制作に使われる建造物の模型)
プラスチック製の完成品がトミックス、カトー、津川洋行から、プラモデル状のキットがグリーンマックスから発売されている。また、外国製品や縮尺がNゲージに近いプラモデルなども使用できる。
アクセサリー
自動車、人形など鉄道車輛・ストラクチャー以外のNゲージサイズの模型製品全般を指し、主にレイアウト・ジオラマの製作に使われる。日本においてはカトー、トミックス、グリーンマックス、津川洋行といったメーカーから、自動車はバス、トラックから自転車まで、人形は鉄道員、一般の通行人から牛、犬など動物まで製品化されているほか、電柱、自動販売機、ドラム缶、ポリバケツなど様々なものが模型化されている。日本以上に製品が豊富な外国メーカーの製品も輸入・販売されている。
シーナリー用品
レイアウトやジオラマ製作に使われる部材のことで、地形や植生を表現するために用いられる。カラーパウダー、ライケン、コルクブロックが代表的な製品だがこのほかにも多くの種類が製品化されている。トミックスの製品が以前から市場に広く流通していて、カトーも海外メーカー「ウッドランド・シーニックス」と提携して同社の製品をカトーブランドで発売しているほか、「ノッホ」の製品も取り扱っている。また、津川洋行、河合商会からも製品が発売されている。
縮尺が1/144に近いため、建造物、自動車、フィギア等は、ガンプラやWTM(ワールドタンクミュージアム)、航空機等の情景模型を製作する際に多用され、特にグリーンマックスなどの安価で改造が容易いストラクチャーキットは、他の模型ファンからも重宝されている。

2009年03月07日

サン・ジャシント(USS San Jacinto, CV/CVL-30)

サン・ジャシント(USS San Jacinto, CV/CVL-30)は、アメリカ海軍の航空母艦。インディペンデンス級航空母艦の9番艦。艦名はテキサス独立戦争におけるサンジャシントの戦いに因む。その名を持つ艦としては二隻目。

艦歴
サン・ジャシントはニュージャージー州カムデンのニューヨーク造船所で1942年10月26日に軽巡洋艦ニューアーク(USS Newark, CL-100)として起工する。1942年6月2日に CV-30 に艦種変更、レプライザル(USS Reprisal)と艦名変更され、1943年1月30日にサン・ジャシントと再び艦名変更される。建造途中に CVL-30 に再び艦種変更され、1943年9月26日にジェシー・ジョーンズ夫人によって命名、進水する。1943年11月15日にハロルド・M・マーティン艦長の指揮下就役した。

カリブ海での整調航海の後、サン・ジャシントは太平洋の交戦地帯へ、パナマ運河、サンディエゴおよび真珠湾経由で出航した。マーシャル諸島のマジュロに到着すると、マーク・ミッチャー海軍中将率いる第58/38空母機動部隊の一部として太平洋艦隊に加わる。サン・ジャシントは第51航空団を乗艦させて出港する。

ウェーキ島、南鳥島攻撃部隊の僚艦護衛のための偵察任務を行った後、サン・ジャシントは1944年6月5日までにミッドウェー海戦以来の最大の海戦となるマリアナ沖海戦への参加準備を整えていた。その日第58空母機動部隊はマジュロからマリアナ諸島に向けて出航し、サイパン制圧部隊支援のための航空攻撃準備を行った。

このアメリカ軍による攻撃は日本軍の激烈な抵抗を引き起こした。6月19日に日本艦隊はアメリカ軍に対し400機以上を投入して攻撃を行った。続いて引き起こった空戦でアメリカ軍は300機を超える日本軍機を撃墜し、後に「マリアナの射的遊び The Marianas Turkey Shoot.」として語られることになる。このアメリカ軍の大勝に終わった海戦でサン・ジャシントの砲手は友軍艦艇に接近した日本機を数機撃墜している。その日の夕刻、ミッチャー提督は退却する敵艦隊の追撃を全空母に命じた。艦載機の帰還は夜間に相当な混乱の中遂行された。日本軍艦載機がサン・ジャシントに着艦アプローチを試みたが、着艦フックが下がっていなかったため、信号士官は着艦信号を振るだけであった。

その後サン・ジャシントはロタ島とグアムに対する攻撃、戦闘偵察飛行、対潜哨戒任務に参加した。この攻撃期間中にサン・ジャシントの艦載機パイロットはグアム島上空で撃墜され、救命筏の中で17日間を過ごした後に救助された。
チック ぐうわ ラガーマ ヒール 黄砂の時間 ヨル ラジル セルン レイン ピックス フリーク 黄金バッド ランナー ウエポン ハムスライ かいわれ セサミン ガスホ ラスパ ヒップ バレンタ ルナス フェミニ ホガニー オランウー トレイン レッスン キムチ ビーチ サイト リードグ シルバ シフォンケ グッド カプチーノ ヒット フェロ ビーシ 男の街 フリー ミニマム ウンボク りゅうがん オーナー ちりめん ブーケト キレート フレン ドライバー バリュー

エニウェトク環礁で燃料及び物資を補給した後、サン・ジャシントは7月15日にパラオ攻撃に参加する。8月5日には父島、母島、硫黄島に対する攻撃を行った。エニウェトクで短期間停泊した後、僚艦がヤップ、ウルシー、アンガウル島、バベルダオブ島へ攻撃を行っている間に戦闘偵察飛行、対潜哨戒任務に従事する。日本軍機は地上に釘付けとなった。

9月2日、サン・ジャシント艦載機TBF アベンジャーのパイロット、後に大統領となるジョージ・H・W・ブッシュが敵空域で撃墜される。彼の同僚は二人とも死亡したが、ブッシュは脱出に成功し、後に空軍殊勲十字章を受章している。

アドミラルティ諸島のマヌスで物資補給を受けた後に、サン・ジャシントは沖縄攻撃に参加、上陸作戦に備えて地上基地の写真撮影を行う。洋上給油を行った後、僚艦が台湾、北ルソンおよびマニラ湾に対する攻撃を行っている間10月12日から19日まで戦闘偵察飛行を行っている。この間の10月17日に艦載機が着陸の際に誤って機銃を艦橋に発射し、2名が死亡、24名が負傷した。この中には部隊指揮官が含まれており、レーダーに対して大きな被害が生じた。この事故にもかかわらずサン・ジャシントは作戦行動を続けた。

アメリカ軍が10月20日にフィリピン中部のレイテに上陸すると、サン・ジャシントは友軍への上空掩護を行った。10月24日にこの任務は栗田健男中将率いる日本艦隊発見の報により中断される。

サン・ジャシントは艦載機を投入し、エンガノ岬沖海戦で多大な戦果を上げた。10月30日に艦載機はレイテ島上空防衛を行う。その一方、サン・ジャシントは突入を試みた二機の特攻機を艦載砲で撃墜している。ウルシー泊地で停泊した後マニラ湾攻撃部隊に加わり、その後グアムで航空団を交代、第45航空団を乗艦させる。1944年12月の台風でサン・ジャシントは軽微な損傷を負う。

ウルシー泊地で修理を終えた後、サン・ジャシントと僚艦は南シナ海域に入り台湾の飛行場、カムラン湾、インドシナ、香港での艦艇攻撃を行う。第38空母機動部隊は海上で燃料補給を行い、敵に対する威圧とルソン侵攻部隊への支援、沖縄への攻撃を継続した。

続いてサン・ジャシントは第一次日本本土攻撃に参加する。1945年2月16日、17日の攻撃で艦載機は関東地方の飛行場上空で空戦を行い多数の敵機を撃墜している。これらの攻撃は硫黄島上陸支援が目的であった。その後上陸部隊への航空支援を行い、ウルシー泊地に帰還した。

九州沖での作戦活動時にサン・ジャシントはフランクリン(USS Franklin, CV-13)の大火災を目撃している。1945年3月19日には特攻機の突入をかろうじて回避している。続くアイスバーグ作戦では、沖縄進攻に対して航空支援を行った。4月5日に500機を越える敵機が突入攻撃を行い、アメリカ軍は戦闘機と高射砲で約300機を撃墜したが、多数が目標に達することとなった。サン・ジャシントの砲手は特攻機をようやく撃墜した。もう一機は艦前方50フィートの位置で撃墜された。沖縄進攻の間、サン・ジャシントはほとんど絶えず総員配置状態で地上軍を支援し、特攻機による攻撃を撃退した。4月7日にサン・ジャシントの艦載機は沖縄水上特攻部隊の一艦、駆逐艦浜風を撃沈している。

その後サン・ジャシントは九州の特攻拠点である鹿屋基地への攻撃や沖縄地上軍への航空援護を行った。6月5日に台風に遭遇するが損害はなく、その後レイテ島で第58空母機動部隊に配置され日本本土への最終攻撃を行う。7月9日から8月15日まで北海道及び本州の各都市を攻撃し、終戦まで沖合で作戦活動に従事する。日本の戦時捕虜収容所に食料と医薬品投下も行った。サン・ジャシントは1945年9月14日にカリフォルニア州アラミダで係留された。

サン・ジャシントは1947年3月1日に退役し、サンディエゴで太平洋予備役艦隊に加わった。1959年5月15日に航空機輸送艦(AVT-5)として艦種変更されたが、1970年6月1日に除籍され、1971年12月15日にカリフォルニア州ロサンゼルス、ターミナル島のナショナル・メタル・アンド・スチール社にスクラップとして売却された。

2009年02月18日

Lost Passage

日本最古の都である京都が舞台となる。 慌ただしい現代の社会から失われつつある日本の古典的情緒を今尚、色濃く残す、その懐かしい生れ育った故郷である街へ、主人公である"三崎彰"は教育実習生として実に4年振りの帰郷をする。 彼を出迎えるのは幼馴染で17歳ながら月読神宮の当主を努める生粋の巫女で美しき大和撫子である"宇佐観月"。 病弱で内向的な従妹で妹分の"山吹沙雪"。 元は彼の担任で、主人公の高校生時代ほんのつかの間の恋人でもあった年上の女性"綾小路育美"。 一種独特の雰囲気を持つ銀髪の美しい留学生、"エリナ・レミンカイネン"。 男勝りで負けず嫌いの同期実習生でもある"夏越理乃"。 天涯孤独で不遇の不幸な巫女"藤森めぐみ"。 懐かしい幾つかの再会と幾つかの出会いを経て、この物語は最初は静かに、そして大きく予想だにしない方向へと動き始めていく。
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三崎彰 《みさき しょう》
この物語の主人公。
22歳。このたび教育実習で母校へ来た大学の4回生。日本史を担当する。心根は優しくて女性に安心と信頼感を与える性格の持ち主で、正義感が強い。読書家であるが身長は180cmの長身で、逞しい体格の快活なスポーツマンタイプ。顔立ちは結構整い、端正な男前であるが、ちょっとばかり抜けてて、顔に似合わず第一印象と異なり、かなりエッチな点(コスプレをする女性が大好きな所)が欠点?と言われる。
宇佐観月 《うさ みづき》(声:青葉楓/島香麗子/本間ゆかり)
身長159cm スリーサイズ B86cm W57cm H85cm 趣味(日本舞踊、茶道、華道) 誕生日 8月23日 乙女座 血液型A
主人公が担当するクラスの生徒で、幼馴染の美少女。お淑やかで、日本舞踊、茶道、華道その他も華麗で優雅にこなす(実は努力を惜しまぬ頑張り屋の)大和撫子で生粋の巫女。沙雪と親友であった縁で主人公と幼い頃に知り合う。三人姉妹の末っ子として育ち、兄が欲しかった為、主人公のことを初対面の時から「兄様(にいさま)」と一途に呼び慕っている。実の兄妹の様に可愛がってくれた主人公に感謝しているが、妹分としてしか接してくれなかった事に少々不満気で寂しいと考えていた。
巫女装束を纏い神楽を舞う姿は神々しさに溢れ眩しいまでの美しさを感じさせ、艶やかな黒髪と清楚な立ち振る舞いで芸術的な日本人形のようであるとは主人公の弁。両親と長姉が不慮の事故で亡くなり、次姉が既に既婚者であった為、月読神宮の当主「月読の巫女」を継ぐが、望まぬ未来に心を閉ざし主人公に対してさえも殆ど感情を表に出さなくなっていた。
しかし彼女の凍りかけた心は主人公との再会で次第に溶けていく。そして普段のお淑やかで清楚な彼女からは・・・信じられないほどに一途で狂惜しいほどの想いと愛情が解き放たれた時・・・・・・
山吹沙雪 《やまぶき さゆき》(声:乃田あす実/椎名奏子)
身長148cm スリーサイズ B78cm W52cm H76cm 趣味(家事、小説創作) 誕生日 5月12日 牡牛座 血液型AB 
主人公の従妹で妹分。彼の教育実習期間中に宿泊することとなる日本旅館「山吹」の一人娘。病弱でおとなしい内向的な文学少女。一人っ子の為か昔から主人公を「お兄ちゃん」と呼んで実の兄の如く慕い続け、観月とは幼ない頃から一緒に遊んだ親友である。病気療養で1年間休学してしまった為に同い年ながら観月やエリナとは1学年下になる。今も入退院を繰り返し学校を休む事もしばしばあり、主人公・彰や親友の観月のような健康的な身体に憧れ、その感情を自身の創作小説に反映させている。
綾小路育美 《あやのこうじ いくみ》(声:天神有海/三重野亜未)
身長165cm スリーサイズ B90cm W58cm H89cm 趣味(歴史に関する映画、ビデオ鑑賞、歴史書の愛読) 誕生日 11月10日 蠍座 血液型A 
主人公の元担任。教育実習中は担当の教師として接する。頭脳明晰で国公立進学クラスの文系授業を担当している。年上の女性らしい優しさと時には厳しさも併せ持つ、芯の強い女性。お姉さんタイプの物腰で生徒達に慕われ、学校での人気はナンバーワンの教師。しかしながら、新任時代に主人公との間には未だに誰にも知られていない、秘密の許されない(女教師と男子学生)間柄の恋人という関係が過去にあった。
エリナ・レミンカイネン 《えりな れみんかいねん》(声:日向裕羅)
身長162cm スリーサイズ B84cm W57cm H86cm 趣味(動物観察、動物飼育) 誕生日 6月4日 双子座 血液型O 
北欧フィンランドからの留学生で観月のクラスメイト。日本語は発音も語彙も何故か、かなり堪能である。長い銀髪と紅い瞳が可愛い、外見上は非常に神秘的であるが性格はとても明るくて人懐っこい。また見かけによらず走るのがとても速い。動物が大好きでタロと名付けた小狼を連れている。歴史上の人物では坂本竜馬が日本男児の鏡であると思い尊敬している。また主人公と同じく沙雪の実家である旅館「山吹」にちょっとした縁があって下宿している。
藤森めぐみ 《ふじもり めぐみ》(声:須本綾奈)
身長156cm スリーサイズ B78cm W54cm H84cm 趣味(特に無し) 誕生日 7月20日 蟹座 血液型O 
観月の月読神宮にて住み込みで働いている巫女さん。3年前に優しかった唯一の肉親である母親を失って天涯孤独となってしまった時に、月読神宮に引き取られ日々の糧を得る。その後、当主である観月付きの専任巫女に大抜擢されるのであるが、そのせいで他の神職達や使用人から嫉妬を買ってしまい、陰で色々と苛められてしまうようになる。
夏越理乃 《なつこし りの》(声:後藤邑子/柳井流海)
身長168cm スリーサイズ B88cm W60cm H90cm 趣味(歴史探究) 誕生日 4月15日 牡羊座 血液型B 
主人公と同じ大学からやって来た教育実習生で二輪バイクを乗り回す活発な女性。性格は根が非常に真面目で、何事にも一生懸命過ぎて、少しばかり頑固なところが欠点。 主人公の良き競争相手で対等の口喧嘩友達である。

2009年01月28日

奥州仕置(おうしゅうしおき)

奥州仕置(おうしゅうしおき)とは、天正18年(1590年)7月から8月にかけて行なわれた、豊臣秀吉による東北地方に対する領土仕置のこと。奥羽仕置ともいう。
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秀吉は下野の宇都宮国綱、常陸の佐竹義重とともに小田原攻めを行い、天正18年7月11日、小田原城は開城し、北条氏政・北条氏照兄弟が切腹、北条氏直ら北条一門の多くが高野山に配流となった。これにより後北条氏は滅亡した。

秀吉は7月17日、国綱や、参陣した伊達政宗らとともに小田原から下野に向かい、7月26日、宇都宮城に入城しここで奥羽大名に対する仕置を行った(宇都宮仕置)。この翌日には陸奥北部の南部信直に対して陸奥北部7郡の所領を安堵した。8月1日には佐竹義重に対して常陸ほか54万石の所領を安堵している。この仕置で政宗から召し上げた会津を与えられた蒲生氏郷、浅野長政を筆頭とする奥州仕置軍は、政宗の案内により8月6日に白河に到着、その後抵抗した葛西氏を退けながら8月9日には会津黒川城(現在の会津若松)に入り、秀吉の天下統一の総仕上げはここに完了したのである。

内容
奥州仕置の内容は次の通りである。

改易 - 大崎義隆、葛西晴信、和賀忠親、田村宗顕、石川昭光,白河義親ら。(小田原に参陣しなかったため)。
減封 - 伊達政宗。(前年に摺上原の戦いで蘆名義広を破って、奥羽に150万石近い大領国を築いていたが、会津攻めが秀吉が出した惣無事令に違反していたこと、政宗自身が小田原に遅参したことなどから、会津・岩瀬・安積を没収され、陸奥出羽のうち13郡、およそ72万石に減封された)。
所領安堵 - 最上義光、相馬義胤、秋田実季、津軽為信、南部信直、戸沢盛安ら(小田原に参陣したため。またはかねてから秀吉と親交があったため。ただし、南部信直の津軽為信を謀反人とする訴えは却下)。
新封 - 蒲生氏郷(豊臣氏の家臣。葦名氏の旧領・会津黒川42万石を与えられる)。木村吉清(寺池城(登米城)を中心とした葛西大崎30万石を与えられる。元は明智光秀家臣だったが、光秀没後に豊臣氏に臣従した)。

影響
奥州仕置により、豊臣秀吉の天下統一は遂に完成した。奥羽で検地が実施され、諸大名家の石高が確定し、それを基準とした軍役が課せられ、豊臣政権に組み込まれた。また、東北諸大名家は同族連合的雰囲気が強かったが、豊臣政権が公認した者を主君とすることにより大名権力が強化され近世大名へと脱却がはかられた。

しかし豊臣政権による強引な大名の再配置は多くの不満と軋轢を生んだ。例えば、

秀吉が奥州支配の拠点として新たに大名とした木村吉清は支配体制の強化を進めるが、豊臣軍主力が奥州から引き上げると、改易された葛西氏・大崎氏の旧臣が中心となった葛西大崎一揆が発生する。これに呼応するかのように、旧和賀領、旧稗貫領、出羽庄内地方、仙北地方でも地侍層を中心とした一揆が発生し、豊臣政権は鎮圧軍を派遣する。
仕置により、ほぼ対等な立場から南部家臣団に組み込まれた九戸政実が「主君」南部信直と武力衝突を起し、翌天正19年(1591年)には再度大規模な鎮圧軍を派遣せざるを得なくなった。九戸政実の乱鎮圧後、奥羽の情勢は一応の安定を迎える。
大幅に所領を減らされたうえ転封された伊達政宗は、秀吉本人と、上意として詰問した石田三成に対して大いなる不満を抱き、後に起こった関ヶ原の戦いで東軍につかせる一因を成したとされる。
この仕置は後に豊臣政権へ悪影響も与えたのである。

小田原の役(おだわらのえき)は、1590年(天正18年)に豊臣秀吉が後北条氏の居城小田原城を包囲し、北条氏政・北条氏直父子を降した戦役。小田原城の攻囲戦だけでなく、平行して行われた北条氏領土の攻略戦も、この戦役に含むものとする。小田原攻め、小田原征伐、小田原合戦とも呼ばれる。また、従来は「小田原評定」という諺に代表されるように後北条氏を低く見る傾向があったが、研究が進んで新しい事実も出てきている。

前史
戦国時代に新興大名として台頭した後北条氏は武蔵国進出を志向して両上杉氏を駆逐し、甲斐国の武田氏、駿河国の今川氏との三国同盟を背景に関東進出を本格化させると関東管領職を継承した越後の上杉謙信と対峙し、特に上杉氏の関東出兵には同じく信濃侵攻において上杉氏と対峙する武田氏との甲相同盟により連携して対抗した。

戦国後期には織田・徳川勢力と対峙する甲斐の武田信玄がそれまでの北進策を転換し駿河の今川領国への侵攻(駿河侵攻)を行ったため後北条氏は甲斐との同盟を破棄し、越後の上杉謙信と越相同盟を結び武田氏を挟撃するが、やがて甲相同盟を回復すると再び関東平定を進めていく。

信玄が西上作戦の途上に急死した後、越後では謙信の死によって御館の乱が勃発。勝頼が上杉景勝支持に回ったことにより、武田家との同盟は崩壊する。1580年(天正8年)、氏政は氏直に家督を譲って江戸城に隠居したあとも、北条氏照や北条氏邦など有力一門の宗家に対する影響力を封じるため実質的当主として君臨していた。

1582年(天正10年)、御館の乱により武田氏と絶交していた後北条氏は織田信長の武田征伐に参加することとなる。この戦いで上野や駿河における武田方の諸城を攻略したものの、戦後の恩賞は皆無であり、北条家は織田家へ不満を抱くようになる。本能寺の変で信長が横死した直後、織田家と断交、滝川一益を蹴散らした神流川の戦いを経て甲斐の支配を目論んでいた徳川家康との間に武田遺領を巡る天正壬午の乱が勃発する。一時は信濃の大半を支配下に置いたが、徳川方の依田氏の工作により真田氏が離反。後方に不安を抱えたままの合戦を嫌った北条氏は、家康の娘・督姫を氏直に嫁がせ、武田遺領のうち後北条氏が上野、徳川氏が甲斐・信濃を実質領有することで講和の道を選んだ。しかし、徳川傘下となった真田氏は勢力範囲の一つ沼田の割譲が講和条件とされたことに激怒、徳川氏からも離反し上杉家を頼ることとなった。

後北条氏は徳川氏との同盟締結によって、全軍を関東に集中できる状況を作りあげた。既に房総南部の里見家を事実上の従属下に置いていた北条氏は北関東に軍勢を集中させることとなった。下野の佐野家を取り込み、中央部の鹿沼城や真岡城などを寝返らせ、宇都宮国綱は宇都宮城から逃亡した。那須一族と主導的な盟約を結び、下野の大半を勢力圏とする。さらに常陸南部にも進出し、奥州の伊達政宗と同盟を結ぶなど、一族の悲願である関東制圧は目前に迫った。しかし、追い詰められた佐竹義重らは秀吉に近づくこととなる。豊臣政権側としても、以前から後北条氏を警戒していたようである。そんな最中、真田氏との領土紛争を起こした後北条氏は一旦は秀吉の仲裁によって、後北条氏が沼田城を領有して紛争地域の大半を後北条領とする事で和解する事になった。その和解の条件として秀吉は氏政・氏直のどちらかの上洛を要求した(これは徳川家康や島津義久・義弘兄弟が豊臣政権に従った時にも条件の一つとして行われており、上洛以後は過去の敵対行為は一切不問とされている)。だが、後北条・真田双方ともその内部には仲裁案に不満を抱く者もおり、北条父子の上洛の話は実現しなかった。代わりに板部岡江雪斎を使者として送り、一旦は氏政上洛という返事もあった。ところが、1589年(天正17年)11月、後北条方で沼田城将猪俣範直による(真田氏の墳墓があったため、特に真田側の領有とされていた)名胡桃城占領と言う事態を迎えたのである。これに対し秀吉は後北条氏の惣無事令違反を非難して、その討伐令を全国の諸大名に通知したのである。範直の名胡桃城占領に関しては、範直の独断ではなく暗に氏政の指示があったという説もあるが定かではない。同年12月13日、秀吉は宣戦布告の朱印状を以って陣触れを発した。

戦争準備
後北条氏側は関東諸豪制圧の頃から秀吉の影を感じ始めていたと言われ、その頃から万が一の時に備えて15歳から70歳の男子を対象にした徴兵や、大砲鋳造のために寺の鐘を供出させたりするなど戦闘体制を整えていた。また、ある程度豊臣軍の展開や戦略を予測しており、それに対応して小田原城の拡大修築や八王子城、山中城、韮山城などの築城を進めた。また、それらにつながる城砦の整備も箱根山方面を中心に進んでいった。

一方、豊臣側では傘下諸大名の領地石高に対応した人的負担を決定(分担や割合などは諸説ある)。また、陣触れ直後に長束正家に命じて米雑穀20万石あまりを徴発し、天正大判1万枚で馬畜や穀物などを集めた。長宗我部元親や宇喜多秀家、九鬼嘉隆らに命じて水軍を出動させ、徴発した米などの輸送に宛がわせた。毛利輝元には京都守護を命じて、後顧の憂いを絶った。豊臣軍は大きく2つの軍勢で構成されていた。東海道を進む豊臣本隊や徳川勢を主力と、東山道から進む北国勢を中心とする北方隊である。

豊臣側の主だった大名(秀吉を除く)
主力:豊臣秀次、徳川家康、織田信雄、蒲生氏郷、黒田如水、羽柴秀勝、宇喜多秀家、織田信包、細川忠興、小早川隆景、吉川広家、堀秀政、池田輝政、浅野長政、石田三成、長束正家、長谷川秀一、大谷吉隆、石川数正、増田長盛、金森長近、筒井定次、生駒親正、蜂須賀家政、大友吉統、島津久保。約170,000
水軍:長宗我部元親、加藤嘉明、九鬼嘉隆、脇坂安治。約10,000
北方隊:前田利家、前田利長、上杉景勝、真田昌幸、依田康国。約35,000
総計約21万(推定)

後北条側の主だった諸将(氏政・氏直父子を除く)
小田原城:北条氏忠、北条氏照、太田氏房、成田氏長、皆川広照、垪和康忠、松田憲秀、笠原政晴、笠原政堯
その他の城:松田康長(山中城)、北条氏勝(山中城→玉縄城)、北条氏規(韮山城)、大道寺政繁(松井田城)、北条氏邦(鉢形城)
豊臣側の基本的戦略としては、北方隊で牽制をかけながら、主力は小田原への道を阻む山中、韮山、足柄の三城を突破し、同時に水軍で伊豆半島をめぐって小田原に迫らせる方針であった。一方、兵力で劣るとは言いながらも後北条氏側も5万余の精鋭部隊を小田原城に集め、そこから最精兵を抽出[要出典]して山中、韮山、足柄の三城に配置した。主力を小田原に引き抜かれた部隊には徴兵した中年男子などを宛てた。各方面から豊臣側が押し寄せてくるのは明らかであったが、それ以上に主力が東海道を進撃するのが明らかだったため、箱根山中での持久戦を想定した戦略を推し進めることになった。野戦を主張した氏邦がこの戦略に異を唱え、手勢を率いて鉢形城に帰る事態となったが、最終的にこの戦略が採られる事となった。とはいえ、松井田城には大道寺政繁率いる数千の兵が、さらに館林城にも同程度の兵が割り振られていた事を考えると、北関東にもある程度の備えは配置されていたといえる。

戦争開始
前哨戦?小田原包囲
1590年(天正18年)春頃から豊臣軍主力が、かつて源頼朝が平氏打倒の挙兵の際に兵を集めた黄瀬川周辺に集結。それを察知した後北条側はゲリラ戦法を以ってこれに対抗。[要出典]兵糧を焼くなど一定の戦果があったらしく[要出典]、豊臣軍の兵は忽ち食糧不足に陥り[要出典]略奪や狩猟などで食糧を確保していたようである。[要出典]3月27日には秀吉自身が沼津に到着。29日に進撃を開始。進撃を阻む山中城には秀次・徳川勢を、韮山城には織田信雄勢を宛てて攻撃を開始した。山中城では一柳直末が討ち死にしたものの数時間の戦闘の後落城し、松田康長は北条氏勝を逃して手勢を率いて玉砕。徳川勢は山中城落城の同日に鷹之巣城を、翌日に井伊直政隊が攻城を開始した足柄城を4月1日に落とし、先鋒部隊は早くも4月3日には小田原に到着した。韮山城では攻撃側の10分の1しかいない城兵が織田信雄勢を阻み包囲戦となる。そのため、秀吉は韮山城包囲のための最小限の兵力を残し、織田信雄以下の主力は小田原方面に転進させた。水軍部隊は伊豆半島沿岸の諸城を落とし小田原沖に展開する。小田原包囲戦が始まると秀吉は余裕を各方面に見せ付けるかのように、石垣山に石垣山一夜城を築き、千利休や、淀殿ら愛妾を呼んでの大茶会などを連日開いた。また、富と権力を誇示するためのパフォーマンスを小田原やそれ以外のところで繰り広げることとなった。

支城攻略戦
一方、前田勢・上杉勢ら北国勢と、途中で合流した信州勢を主力とする北方隊は、3月に入るや否や松井田城攻略に取り掛かった。大道寺政繁は嫡男を脱出させ自らは激しく抵抗するも、連合軍の猛攻の前に4月20日についに降伏。道案内をすることとなった。その後、厩橋城(4月19日)、箕輪城(4月23日)と上野の各城を開城勧告などで難なく攻め落とした。一方、小田原包囲勢から主に徳川勢から兵力を抽出して北方隊を助ける部隊を編成し、武蔵に進撃。玉縄城(4月21日)、江戸城(4月27日)と武蔵の諸城を次々に陥落させると、戦力を二手に分け、片方は下総方面に向かわせた。浅野長政・内藤家長(徳川家臣)らによる下総方面軍は小金城(5月5日)、臼井城(5月10日)、本佐倉城(5月18日)と次々と落とし、逆に秀吉から浅野に対して敵である房総諸将の不甲斐無さを詰って房総諸城の攻略は戦功として認めないとする書状が送られたほどであったという(5月20日付、「浅野家文書」)。もう一方は河越城を陥落させ、岩付城も5月20日に徳川勢の働きもあって落城した。この房総・武蔵の諸城の異常な速さでの陥落は、各城の兵力のほとんどが小田原城の籠城戦のために引き抜かれたために最低限の守備兵すら確保できない状態での籠城戦となったためである。ある程度の兵士が確保されていた鉢形城や館林城などは攻め倦み、そこでは進撃の速度は大幅に落ちている。

忍城攻めでは、石田三成を大将、長束正家を副将に佐竹義重や宇都宮国綱、結城晴朝などの上野・下野の諸将や真田昌幸を先鋒に押し立てて攻め寄せた。しかし、城方も城主成田氏長の正室を中心によく防備し、また湿地の多い地形に三成も戦略をなくし、膠着状態となった。岩槻城を抜いた徳川勢の後詰もあったが、戦況は全く変わらなかった。そこで、湿地が多いことを逆手に取り、水攻めを決行することとなった(一説には、秀吉が繰り広げたパフォーマンスの一環とも言われている。というより、そもそも水攻めは周辺地域に甚大な被害を与えるプロジェクトであり、当時の三成の身分で行動に移せるほど簡単なものではない。さらに、水攻めに批判的な三成自身の証言も残っていることを考慮に入れれば、発案者が彼でないことは明快であろう)。しかし、天候がよすぎて水が干上がり気味だった上に、火矢対策で城方がどんどん水を城に引き入れていたため失敗に終わり、最終的には城方が偶然堤防を切ったことによる出水で三成勢以下が大損害を蒙るという最悪の結末となった。(ただし、この話の出典は江戸期以降の軍記物であり、信憑性はない)この件により、三成は後年「戦下手」というレッテルを貼られてしまったが、三成の戦略が特に拙かったということもなく、運やツキがあまりにも三成に向いていなかったとも言える。忍城攻めは7月に入っても続いた。

小田原開城へ
6月に入ると、小田原を囲む豊臣軍主力の中に乱暴狼藉を働く者や逃散が頻発するようになる(「家忠日記」)。包囲中、戦らしい戦と言えば、太田氏房が蒲生勢に夜襲をかけたのが後北条側唯一の攻勢であり、囲む方は、井伊直政が蓑曲輪に夜襲を仕掛けた作戦と、6月25日夜半に捨曲輪を巡る攻防があったぐらいであった(それ以外は、互いの陣から鉄砲を射掛けるぐらいのものであったという)。さらに、包囲中の5月27日には堀秀政が陣没するなど、優勢とはいえ暗いムードが漂い始めた。[要出典]一方の後北条側でも外部との連絡が不通になり、士気の低下は避けられなくなった。

そんな中、後北条側から離反の動きが見えるようになった。氏長は忍城守備を家臣に任せて小田原につめていたが、かねてから親しかった連歌の達人を通じ、里村紹巴を介して豊臣側に内通する内約を取り付けたが、未然に発覚し氏長は素蔵に押し込められる結果となった。また、6月16日に松田憲秀の長子であった笠原政晴が数人の同士とともに豊臣側に内通していたことが発覚。政晴一味の計画では忠興、輝政の両軍勢を引き入れる手はずであったが、一味の一人が江雪斎に計画を白状したため、政晴は氏直により成敗され、憲秀も押し込めと相成った。この成敗事件と6月23日に北方隊によって陥落させられた八王子城から首多数が送られ、また将兵の妻子が城外で晒し者にされたことが後北条側の士気低下に拍車をかけ、6月26日には石垣山一夜城が完成したことが後北条側に決定的な打撃をもたらした。俗に北条氏の一族・重臣が豊臣軍と徹底抗戦するか降伏するかで揉め、一向に結論がでなかった故事から「小田原評定」という言葉が生まれたが、これがどの時期の出来事を指すのかは不明である。

7月に入ると、氏房、氏規がそれぞれ滝川雄利と家康を窓口として和平交渉に当たった。そして7月5日、氏直は徳川勢の陣に向かい、己の切腹と引き換えに城兵を助けるよう申し出た。家康は氏直を雄利、次いで信雄の元まで護送し、秀吉に氏直の降伏を伝えた。

小田原陥落後
戦後、7月7日から9日にかけて片桐且元と脇坂安治、榊原康政を検使とし、小田原城受け取りに当たらせた。7月9日、主戦派であった前当主の氏政とその弟の北条氏照は最後に小田原城を出て番所に移動。7月11日、康政以下の検視役が見守る中、氏規の介錯により自害した。これとは別に、内通の手引きをした松田憲秀と早々に降伏して主家を裏切った大道寺政繁に切腹を命じた。氏政・氏照兄弟の介錯役だった氏規は、兄弟の自刃後追い腹を切ろうとしたが、検視役に止められ果たせなかった。その氏規と当主氏直は家康と昵懇の仲(氏直は家康の娘婿、氏規は家康の駿府人質時代の旧知)が故に助命され、紀伊国高野山に追放された。

一方、小田原城陥落と相前後して鉢形城は6月14日に氏邦が突如出家するに及んで開城となり、韮山城も6月24日に開城。忍城は氏長の降伏を受けて使者が送られた。使者が到着するまでの間に浅野長政との間でゴタゴタがあったものの、7月16日に開城した。これにより戦国大名としての後北条氏は滅亡し、秀吉はその後奥州(奥州仕置)を帰服させ天下を統一した。戦後、後北条の旧領はそのまま家康に宛がわれることとなった。

2009年01月20日

インド・ヨーロッパ語族の特徴

この項では英語教育・英語学習者に適する「伝統文法」(規範的)の枠組みを示す。これとはまったく別の記述的英文法は生成文法および英語学を参照されたい。

言語類型論から見て、英語は以下の特徴がある。

インド・ヨーロッパ語族の特徴である名詞の性や格がほぼ消滅しており、格変化は代名詞に残るのみである。このため語順がSVOで固定している。
インド・ヨーロッパ語族の中では、動詞の変化が単純化している。しかし不規則動詞の数は比較的多い。規則動詞の変化形は過去形・過去分詞の -ed、現在分詞・動名詞の -ing、三人称単数現在形の -(e)s のみである。不規則動詞(古英語における強変化動詞の一部)では現在形、過去形、過去分詞で語幹変化が見られる。
複雑な時間表現がある。下記の時制の章を参照。
否定文、疑問文で無内容の助動詞 do を用いる。これは英語にしか見られない特徴である。
主語の働きが強く、形式主語や無生物を主語にする文などが発達している。
二人称では単複および親疎の区別をせず、you のみを使う。

代名詞
人称代名詞については、英語の人称代名詞を参照すること。

人称疑問詞・関係代名詞 who の格変化
人称疑問詞 (personal interrogative)・関係代名詞 (relative pronoun) who は、単数複数関係なく主格 who / 所有格 whose / 目的格 whom (who) の格変化をするのみである(非人称疑問詞 what/which は所有格 whose の変化のみ)。

名詞
可算名詞の複数変化
名詞の格、性による変化は消失したが、可算名詞 (countable noun) は、複数を表す語尾として -s を付する(例: books「本」)。語が無声音で終わっていれば発音は [s]、有声音なら [z] となる。もともと語尾が"s"になっている語では、-es と付する(例: gases 「(数種の)気体」)。また、"f" /f/ で終わる語の中にも複数語尾が"-es"となる語があり、その場合 /f/ は有声化し [v] となる(例: leaves 「葉」)。
なお、古英語時代の強変化名詞の中には、複数変化に伴う語幹の音変化を現代英語でも保っている物がある(例: mouse > mice 「ネズミ」)。また、単複同型のもの(例: fish 「魚」、Japanese 「日本人」)、弱変化名詞の変化を未だ保っているもの(例: ox > oxen 「オスの去勢牛」)、woman → women といった不規則変化など、例外も多くある。
名詞の所有表現
ある名詞が何らかを所有していることを表し、直後に置かれる他の名詞を形容詞的に修飾する場合、単数の場合は語尾に -'s、複数の場合は -'(アポストロフィのみ)を付する(例: the servant's king 「使用人のキング」/ the servants' king 「使用人たちのキング」)。中英語期まで、所有を表すには属格 (genitive) を用いていたが、現代では弱変化名詞属格の活用語尾の名残としてこのような形になって一般化した。
また、前置詞 of を用いて所有関係を表すこともある(例: the crown of the king 「王の王冠」)。
もっと多くの例:

The judge's decision / Decision of the judge : 裁判官の決定
The judges’decision / Decision of the judges : 裁判官たちの決定
Horus' battleship / Battleship of Horus : ホリスの戦艦
派生名詞
他の品詞の語に語尾を追加して名詞化する例が多い。
動詞 + -er または -or …する人(行為者) 例: batter
動詞 + -ing …すること(行為) 例: batting
動詞 + -ment …すること(抽象的行為) 例: settlement
形容詞 + -ness …であること(状態) 例: madness
形容詞 + -ity …であること(状態) 例: homosexuality
形容詞 + -ality …であること(状態) 例: commonality
形容詞 + -ist …である人 例: specialist
名詞 + -ism …主義または傾向 例: capitalism
名詞 + -ist …主義者 例: capitalist
元の品詞と意味の派生方法は代表的なものだけを示した。
逆に言えば、これらの語尾で終わる英単語はほぼ間違いなく名詞である。

動詞
一般動詞 (ordinary verb) は、法 (mood) 、数 (number) 、人称 (person) による活用をほぼ消失しており、三人称単数現在形で"-(e)s"が付されるだけである。時制 (tense) による変化は不規則変化動詞においては現在形、過去形、過去分詞形でそれぞれ変化するが(例: rise/rose/risen 「昇る」)、規則変化動詞では過去形、過去分詞形に -ed 語尾が付されるのみとなる(例: walk/walked/walked 「歩く」)。また、動名詞 (gerund) ・現在分詞 (present participle) においては全ての動詞において原形 (bare form) に -ing 語尾を付すれば良い。

スイート ビジブル 神の蔵 梅最適 ノマド 天空の城 ほない スポー メセナ ノーブル ルピア レシピ ビーエル ナビサド インテーク オーバー ベックス イッシュー ムラグ おのいして ガーベラ バターケ ピッチ リアフレ デルレイ ソシオ ひるぜん ストロ ビジョナリー ミブーツ デポジット フレッ シンフ マザー ウルク たつごう キヨス モルツ トゼブラ シェルタ マホメ ふたみ せっさ マヌカン レクチン クロヨン プラグ ナッシ トーチ リョウ

ドイツ語 (-en) やフランス語 (-er, -ir) と違い、不定形 (inifinitive) に一見して動詞とわかる綴りの形はない。したがってある単語の原形が与えられたとき、動詞かどうか判断する方法はない。このため語形を変えずに品詞の転換が容易である。例: smoke は名詞では「煙」「タバコの一服」だが、そのまま動詞として「煙を出す」「タバコを吸う」とも使える。


英語の法は直説法、仮定法、命令法、条件法が存在する。

直説法 (indicative)
一般動詞においては過去形、過去分詞形、現在分詞形、動名詞、三人称単数現在形以外では目に見える形で活用せず、実質原形を用いる。
仮定法 (subjunctive)
中英語期以前までは、現在・過去のいずれの時制でも現れ、それぞれ固有の語形変化をもっていたが、現代では仮定法自体やや特殊な用法となっている。 if などを用いた条件節 (conditional clause) 内においては一般動詞を過去形に、be 動詞の場合は were にすることによって法を表現し(現在の口語では主語が you 以外の単数の場合 was が用いられることもある)、条件節以外では助動詞の過去形(例: would, could, might, should)を用いることによって表現する。仮定法本来の動詞変化が消失したためにこのような形で表現するのであるが、そのせいで動詞の語形変化で表される時制と、仮定法によって叙述される時制にズレが生じる。
例: If I were a bird, I could fly into the sky. 「もし私が鳥ならば、空に向かって飛んでいけるのだが。」
これを「仮定法過去」といい、叙述されているのは現在の状態・動作である。
仮定法によって過去の状態・動作を叙述するには、次のような構造を用いる。
例: If I had been a bird, I could have flown into the sky. 「もし私が鳥だったならば、空に向かって飛んでいけたのだが。」
条件節内を「助動詞 have の過去形 had + 過去分詞」とし、主節 (main clause) 内を「助動詞過去形 + 助動詞 have + 過去分詞」とする。これを「仮定法過去完了」という。
なお、主節の動詞が話者の意思を表す動詞 (intentional verb) の場合、従属節 (subordinate clause) 内の動詞が人称・時制にかかわらず原形になる場合があり、これを「仮定法現在(仮定法未来)」という。叙述されている時制は主節内の動詞の時制となる。これはアメリカ英語に多く見られる用法であり、イギリス英語では従属節内の動詞の前に should をおく。
例: He insisted that she be innocent.「彼は、彼女が無罪であると主張した。」(アメリカ英語)
例: He insisted that she should be innocent.「彼は、彼女が無罪であると主張した。」(イギリス英語)
このような動詞には、insist の他にも recommend, suggest などがある。
仮定法の条件節において if を使わず、助動詞を倒置させることがしばしばある。
例: Had I had the money, I could have made my fortune. 「あの金さえあればひとやま築けたのに。」
命令法 (imperative)
動詞を原形で文 (sentence) の最初に置くことによって表現する。命令法以外では文頭に動詞の原形が置かれることはほとんど無い。
例: Be quiet. 「静かにしなさい。」 Go to school. 「学校に行け。」 Open the window. 「窓を開けなさい。」